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2005年8月31日の日記


水売り


ベラスケスの初期の傑作のひとつ、「セビーリャの水売り」である。堂々とした風格をみせる水売り商人が、初々しい少年に水のたっぷり入ったグラスを渡しているところだ。

グラスの底に沈んでいる黒っぽいものはイチジクの実で、これは水に含まれている塩分を抜く効果があるのだという。少年のしぐさは、「グラシァス」とお礼でもいっているように見える。

ベラスケスはこの絵を描いたとき、まだ20歳そこそこであった。人物の表情や衣服の質感、グラスや、手前の大きな水瓶の、わずかにこぼれた水が表面に糸を引き、水滴となって光るさまなどを描写する写実の技量は、驚くべきものである。

奥で陰になっている人物がやや平板だが、しかしこの人物は、水売りと少年とその奥へと、絵の遠近感を出すためのもので、構図上必要であった。陰の人物も、よく見るとグラスで水を飲んでいることがわかる。

この作品を描いた4年後、ベラスケスは24歳でスペイン国王フェリペ4世の宮廷画家として召しかかえられ、首都マドリードに移った。イタリアに何度か旅行した以外はマドリードを離れず、彼はここで生涯を終えることになる。

したがって、「セビーリャの水売り」は、宮廷画家になることなどは予想だにせず、故郷セビーリャで絵の習練に余念がなかったころの作品だ。しかし、当時のセビーリャは、首都マドリードよりもはるかに繁栄していた大都市であった。

新大陸発見後、スペインは世界各地に植民地をかかえることになったが、植民地の物資は、ほとんどがセビーリャに集まったといわれている。

イスラムによる支配の時代から文化的な土壌の豊かだったセビーリャは、16〜17世紀の繁栄のなかで、ベラスケスをはじめ、スルバラン、ムリーリョといった大画家たちを輩出した。国王が宮廷画家候補をセビーリャに求めたのには、そうした背景がある。

セビーリャでのベラスケスは、宗教画とともに、美術用語でボデゴンと呼ばれるが、当時流行した料理をする人や食事をする人などを扱った風俗画をかなり描いていた。「セビーリャの水売り」もそのうちの1点である。

セビーリャには、市街をグアダルキビール川という大きな川が流れている。だから、そう水に不足する町とは思えないのだが、おそらく水はあっても、飲み水に適さなかったのだろう。東側にあるシエラネバダ山脈の山水が、地下水になったり伏流水になったりしている場所があり、そういうところの水を汲んできて、セビーリャの町で売る者がいたのだ。

今でもスペインに限らず、ヨーロッパではどこでも飲み水は買って飲むのが当たり前だから、ベラスケスの時代と事情は少しも変わっていない。今はペットボトルに詰めて大量に出荷する一大産業になっているだけのことで、水は昔と同じ、どこかの地下水などを汲み上げたものだ。

そんな大産業になる仕事を、当時は「水売り」たちが引き受けていたとすれば、セビーリャだけでも相当の数の水売りがいたことになる。

堀田善衛の随筆集『スペインの沈黙』に、ゴヤの生まれた村を訪ねたときの話として、その村が地下水が豊富なために、サラゴーサという45キロほど離れた都市に水を売ることで、村全体の生活が成り立っていた、ということが書いてあった。堀田善衛は、ご存じの通り、スペインに長く住み、大作『ゴヤ』を書いた作家である。

サラゴーサはマドリードとバルセロナを結ぶ中間にある都市で、スペインでは北部に属する町である。こうした北部の地域でも、水を売ることで村全体の経済が成り立っていたとすれば、南部のセビーリャの近くにはなおのこと、そうした村はあったであろう。

ベラスケスの描いた「水売り」も、町の商人ではなく、そういう水を売って暮らす村からやってきた村人ではないかと思われる。すでにベラスケスが生きている時代のある学者が、「この絵の水売りは、破れた上っぱりを着たひどく身なりの悪い老人だ」と書いているが、村人であればこれがふつうの身なりだったのではないか。

きびしい風貌も、都会人のものではない。ベラスケスは画家として、この風貌に惹かれたに違いないのである。ゴヤの村の水売りは、45キロも離れたところからサラゴーサヘ出て水を売ったとのことだが、セビーリャの水売りもかなり遠いところから出てきていたはずである。

車のない時代に、険しい道を延々と荷車か何かで水を運んでいたのだ。しかも水は身なりをととのえる間もなく売らなければならない。身なりなどかまっていられないのは、当然なのである。

ヨーロッパの水売りについて詳しい研究は、残念ながら今のところないようである。周知のように、日本にもいつごろまでか、水売りがいた。明治までいたことは、確実である。

日本の水売りには、夏場の暑いとき、白玉や砂糖を入れた冷たい水を、つまり清涼飲料水として売り歩いた者と、水道がなく、井戸水の水質の悪かった都会の特定の地域に、日用の飲料水を売り歩いた者の2種類があった。

清涼飲料組は、「ひゃっこいひゃっこい、どうみょうじさとう水」などといって売り歩いた。「どうみょうじ」は「道明寺」で、白玉餅を意味する。

日用飲料水組は、ただ「今日はようござりますかな、水屋でござります」と挨拶しながら、家ごとに声をかけて歩いた。横着な主婦が、「ちょいと水屋さん、水瓶を見て足りないようだったら、入れておいておくれ」などと、奥のほうから返事をする、という具合である。

これらの売り声は、しかし、いずれも江戸のものである。日々の飲料水で最も難儀していた都会は、井戸水の極端に悪い大坂だったといわれるが、大坂ではどんな売り声だったのだろうか。

京都は水質抜群の湧き水で知られ、名水の地であるところからみると、やはり大坂や江戸のように、河口に近い町ほど、地下から汲み上げる水はよくなかったようだ。

当時の江戸の水売りの絵を見ると、てんびんで両側に木の樽を下げている。水瓶では重くて運びきれなかったからに違いない。ベラスケスの絵では水瓶だが、担いで歩いたとも思えないので、場所を固定して売っていたとも考えられる。

いずれにしても、樽も瓶も、呼吸のできる容器だから、気化熱の作用で、中の水はある程度の冷たさを保っていた。ベラスケスは、宮廷画家になってからは、庶民を描く機会こそ失ったものの、道化師や矮人や貧乏哲学者などを描いた、特異な人物像を残した。

そうした作品には、若い日に水売りの男の風貌に惹きつけられたのと同じ、人間の風貌が表すものへの強い関心が見てとれるのである。

磯辺 勝「名画の扉を開く」
大塚薬報 7・8月号
2005/No.607


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