遠山桜

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昭和29年「大日本雄弁会講談社」から出版された『講談全集いれずみ奉行』という講談集がある。見事な遠山桜が評判になったというおなじみの遠山金四郎である。

もとより講談というのは「無数の尾鰭、この無数の創作−それが傑れた古文人の筆で集成されたのが実録で、…大衆の嗜好の交響楽である」と木村毅が述べ、また大宅壮一は「講談の中に流れている民族的感情の最大公約数をつかまなければ、日本および日本人をほんとにつかんだとはいえない」とそれぞれこの本の表紙で語っている。

金四郎は寛政5年(1793)生まれで、亡くなったのが安政2年(1855)53歳であった。文政12年家督を継ぎ、作事奉行、勘定奉行、天保12年には北町奉行、14年大目付、そして弘化2年から南町奉行を嘉永5年までの8年間、遠山左衛門尉として務めた。

この頃、江戸は天保の飢饉が続き、あの鼠小僧が跋扈したが、ついに天保3年処刑されている。天保8年は大塩平八郎の乱である。水野忠邦が老中になり、13年政治革新を試み、翌年「倹約令」が出された。

そんな時代、大衆が、彼らの心情を理解してくれる奉行を望み、あるいは水野忠邦に対抗する英雄待望の願いが、講談などとして、遠山金四郎が形作られ、庶民の人気を博したに違いない。それだけ老中や奉行は怖く、嫌いな存在だったことを示しているのだ。

金四郎の時代はまた吉田松陰が日本を駆け巡り、高野長英、渡辺華山もいた。ようやく日本開港の機運、遠山はペリー来航の前の年に奉行を辞している。
               
江戸で名奉行として大岡越前守忠相と並ぶ遠山金四郎影元であるが、そのイメージは大きく異なる。大岡越前守は八代将軍吉宗の享保の改革の中で名を教科書に留めているが、一方金四郎はお白州で諸肌脱いだ桜吹雪である。

ところで遠山金さんの、そのいれずみには、いろんな話がつきまとう。本当はいれずみなど金四郎には無かったのではないかという説もある。その一つの証左として、天保13年の「彫物御停令」が挙げられている。

「軽キもの共、ほり物と唱、惣身え種々之絵又は文字をほり、墨を入れ、或は色入等ニいたし候類有之由、右躰之義は、風俗ニも拘り、殊二無庇之惣身え疵付候は、銘々恥可申之処…自今心得違いたし、新ニ彫物致侯もの於有之は、彫遣候ものハ勿論、其もの召捕、急度申付、其次第ニ寄、町役人共迄咎申付候条、態々町役人共より店々え井若年之もの共えは、別て厚く可申諭。但、右渡之趣、町々番屋え張出し可申。右之通従町御奉行所被仰渡候間、早々一統申通、急度可相守候。右之通、寅○天保十三年。三月八日館ニて申候。」とある。

このいれずみ禁止の令が出された時期に、遠山金四郎は実は北町奉行だったのである。つまりいれずみ禁止令の責任者の立場で、果たしていれずみを入れていたのだろうかというのである。もしも、いれずみがあったとしよう。その場合、さすがにお白州で「この桜吹雪を」という訳にはいかないと、藤田覚は述べている。

そう言えば、講談の中には、遠山左衛門尉が諸肌脱いで啖呵を切る情景はない。諸肌脱いでいれずみを披露する場面は、あるにはある。それは金四郎が「モウ再び遊里なぞへは足を向けられぬよう」と言われ、名残というわけで、郭に大尽遊びに出かけ芸者を挙げて、

「金『どうじゃ、今夜一つ湯に入って久し振りに乃公の肌を見せてやろうか』芸『どうかお願いいたします。彼の上り竜、下り竜、遠山桜の綺麗なのをねえ』金『ヨシヨシ』 一風呂浴びて出ると、裸の上に袴を穿いて座敷へ来る、竜の腕に摘んだところ、一片二片と桜花の散ったところ、芸者も幇間も恍惚として、この男前を吉原から取られて仕舞うのかと恨みは尽きないという顔をしております」という一節で、お白州どころではない。

また、玉林晴朗の『文身百姿』にも、「文政の初め頃は放蕩であって無頼の徒とも交友をなし、酒を好み、吉原へ通ひ、遊女に馴染み、大分もてあまし者であった」と述べ、腕に桜の文身を彫ったが、その後「出世して行ったが困ったのは腕の文身であった。それ故常に手甲の様なもので手首迄隠し盛夏の頃でもそれを取ると云う辛がなかった」と記している。

さらに、そのいれずみは桜吹雪ではなく、女の生首であったという話がある。中根淑が明治26年、雑誌『史海』に「帰雲子伝」を執筆した。「帰雲子」は金四郎晩年の号であるが、その中に「一日二世並木五瓶輿金争事、排障将相捕、金攘袂張気勢、不意露臂上花繍、其図断頭美人、乱髪蜘箋、箋端垂及肘、衆見之、且驚且笑、…」とある。

ある日、並木という歌舞伎台本作者と争い事になり、障子を開け、殴りかかろうと腕まくりしたところ、髪振り乱し、口に手紙を含んだ断頭美人のいれずみが現れた。皆それを見て驚くやらおかしいやらというのである。

しかし、玉林は「講談では女の生首が手紙をくはえた凄い図だなどと大袈裟に云っている」と一蹴している。テレビでおなじみは、遠山桜であるが、例えばNHKの「夢暦 長崎奉行」(1996年)での金四郎のそれは、女の生首であった。いずれにしても金四郎の肌にいれずみの可能性は高いが、お白州での桜吹雪は物語であろう。
             
 さて、講談では、奉行の金四郎と鼠小僧次郎吉との丁々発止も出てくる。 金『これははじめての面会、拙者が遠山金四郎じゃ、其方は和泉屋次郎吉と申さうる、か』 次『へイ白昼お逢いいたしまするははじめてでござりますが、夜分には一度お目にかゝりました』、

この鼠小僧次郎吉は江戸堺町に住み、小柄で敏捷なので鼠小僧と呼ばれた。武家屋敷へ盗賊に入り、その盗んだ金で酒食遊興博突にも使ったが、貧乏人に恵んだ義賊として知られている。

その次郎吉、最初博突の利で入れ墨のうえ追放となった。それで、次郎吉は入れ墨のところに、さらに竜のいれずみをして、黥刑のそれをわからなくしてしまったという説がある。

入墨者は世間で商売などをする際に、大きな障害となるので焼き消す者がいたが、次郎吉のようにいれずみを加えて、それを巧みに隠す手段もあり、「江戸中期に彫り物をする者が多く現れたのは、黥刑を受けた痕跡を隠す必要があった」(山本芳美)のである。

そのようにして入れ墨の2本線をかくした者は「入墨入れ直し者」と呼ばれていた。天保3年、鼠小僧次郎吉はついに捕まった。取調べに当たったのは遠山ではなく、町奉行榊原主計掛であった。その申渡、「異名鼠小僧事無宿入墨次郎吉 此者儀十年以前未年(文政六年)以所々武家屋敷廿八ケ所度数三十二度、…博突数度致候旨申立右依科入墨之上追放相成候処、入墨を消紛らし猶悪事不相止…」として獄門を申し付けられた。32歳であった。
               
「評判が評判を生んで、実に遠山桜の花さく、市中の噂。その翌年即ち嘉永の五年三月に功なり名遂げて、モウこゝらが退き時だと思いましたから、大勢の留むるを聞かずに、お暇を願う、まだ〈全盛時代ではありましたが、遂にお許しが出ました。退役されても阿部伊勢守殿の御相談には預っておられました。その内に安政二年二月二十九日五十三歳を一期として、逝去なさいました。…ひとまずこの辺で本篇を完結することにいたします〉と、『講談全集いれずみ奉行』は締めくくっている。

大塚薬報 2007/No.623
3月号

― posted by 大岩稔幸 at 05:24 pm commentComment [1]

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