刎頸の交わり

present


男の首について

男の友情の最もエロティックな表現は「刎頸の交わり」ではなかろうか。
           
男の首についての古来最も煽情的(エキセントリック)なエピソードは洗礼者ヨカナーソ(バブテズマのヨハネ)の首の話であろう。『マテオ聖福音書』のいうところによると、ユデアの太守へロデ・アンティパスは後妻へロディアスの連れ子サロメに舞いを所望し、その褒美にはなんでもやると約束した。

ちょうどそのとき、太守の牢にはヘロデとへロディアスの不倫の結婚をなじるヨカナーンがつながれていた。前々からヨカナーンのことをにがにがしく思っていたヘロディアスは娘を唆かして、褒美にヨカナーソの首を! といわしめた。

洗礼者を恐れていた優柔不断の太守は困惑したが、約束の手前しかたなく洗礼者の首を斬らせて盆にのせ、サロメに渡した。サロメは盆の上の首を母親のところに持って行った……

この簡潔な描写だと、ヨカナーン生首事件の首謀者は太守夫人へロディアスで、サロメは太守夫人の手に操られる操り人形にすぎない。これにまったく新しい解釈を施して一幕の耽美劇に仕立てあげたのが、イギリス世紀末の異才オスカー・ワイルドである。

ワイルドの『サロメ』によると、サロメは淫蕩で権高な母親の傀儡などではなくて、彼女じしんの発意で、かなえられなかった恋の意趣晴らしにヨカナーンの首を望んだことになっている。ワイルド得意のさわりの科白を聞いてみようか。

ああ! お前はその口にロづけさせてくれなかつたね、ヨカナーン。さあ! 今こそ、その口づけを……いいよ、ヨカナーン、このあたしは、まだ生きてゐるのだもの、でも、お前は、死んでしまつて、お前の首はもうあたしのものだもの。どうにでも出来るのだよ、あたしの気のすむやうに……ああ! ヨカナーン、ヨカナーン、お前ひとりなのだよ、あたしが恋した男は……ああ! あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーソ、お前のロに口づけしたよ。お前の唇はにがい味がする。血の味なのかい、これは?    (福田恒存訳)


このあと、サロメは激怒した太守の命により兵士たちの楯に押しつぶされて殺されてしまうが、この遂情直後の死は精神分析家たちのいう性と死の一致の格好の見本のように思われる。

ワイルドの『サロメ』には、のちにこれに触発されてできあがったオーブリー・ビンセント・ビアズリーのきわめて自由な挿し絵の連作がある。それぞれに題名があって、『舞姫の褒美』と題された一枚は盆の上のヨカナーンの首から紅い血(黒白を得意としたビアズリーの絵では黒い血だが)が滴っているが、このすぐあとにつづくと思われる『最高潮』と名付けられた一枚では、サロメの手につかまれたヨカナーンの首から白い血が垂れている。

ビアズリーがそこまで意図したかはいざ知らず、この白い血は情交のあとの滴る精液のように見える。このあと、情交の相手であるサロメが殺されるのだから、なおさらである。

生首を主題にした絵は本朝にも多いが、国芳の六十九次から芳年の残酷絵にいたるまで、生首を口にくわえ、あるいは手にひっさげているのは、いずれも女性ではなくて男性である。これは敵討ちという素材上の要請だともいえるが、サロメのばあいの異性愛的匂いに対して、同性愛的雰囲気をそこに感じとることもできる。

同性愛的という言葉が刺激的に過ぎるなら、汎性愛的(パン・エロティック)と言い換えてもよい。敵方の若き武将である木村長門守の頭髪に香をたきしめ、薄く化粧した首級を賞めた家康公の逸話は、戦国武将に一般的な汎性愛性の典型的な現われというべきだろう。

いったい、立てた手柄の証拠にと、自分が闘った当の相手の首級を持ち帰るという風習は、どんな心情に出たものだろうか。これをニューギネアやボルネオの首狩族さながらの蛮性ととる考えかたはかなり抜きがたいが、それは否定できないにしても、そこに同時にたったいままで自分と死力を尽くして闘った敵のいのちへの愛惜を見なければ、片手落ちでほあるまいか。乃木大将とスチッセル将軍ではないが、呼吸も通いあわんばかり、体熱も伝わりあわんばかりにたがいに体を接して死を賭して闘いあった敵同士は、微温的な友人同士よりもはるかに親しい間柄といえるかもしれないのだ。

いな、友人についても東洋には古来、刎頸の交わりという成語があって、水魚の交わりの類をはるかにひきはなしてエロティックである。

『史記』廉頗蘭相如伝(りんばれんしょうじょでん)に出るこの成語のもとの意味は、相手のためには自分の頸を刎ねられてもいいほどの親しい交わりということらしいが、字づらのみ見るかぎりではたがいに相手の頸を刎ねあう仲とも思える。また、相手のためには自分の頸を刎ねられてもいいということは、窮極的には相手に自分の頚を刎ねさせてもよいということになるであろう。逆にいえば、相手の頸を刎ねるがわは、頸を例ねるほどにも相手のことを愛しているともいえるのだ。

男の首のこのようなエロティシズムは、どこから来るのだろうか。男の首が上半身と下半身をつなぐつなぎ目という微妙な位置にあるからだといえば、たぶん怪訝な顔をされるであろう。上半身と下半身のつなぎ目なら、腰ないしは下腹部というのが、常識だろうからだ。

しかし、あえて奇をてらうようだが、ほんとうの意味での上半身とは頭部であり、下半身とは背部から下全体なのではなかろうか。

上半身、下半身というばあいの上下には、形而上、形而下の上下の気味が抜きがたく含まれているように思う。頭部も肉であることに変わりはないが、認識作用のほとんどが五感というかたちでここでおこなわれ、対他表現のほとんどが表情というかたちでここでおこなわれることを考えれば、頭部は胸部以下に比べてはるかに形而上的ということができよう。

「首を賭ける」、「首をやる」、「首を切る」などの首に集中した決定的な表現も、首という微妙な位置を考えれば、当然のこととも思われる。

形而上的なものほ形而下的なものを含むから、皿の上のヨカナーソの首はヨカナーンの男根のようにも見える。じじつ、情痴の果てに愛する男の男根を切りとった阿部定女とヨカナーンの首を褒美にと乞うたサロメと、二人の女性の心情はフロイト的にはきわめて近いといえる。

すくなくとも、切られた頭部をかきいだいたり、血まみれの男根を愛撫したりする女性は考えられても、それらのない胴体と女性の組み合わせは考えられまい。そして、さらにいえば、この切りとられた首のエロティシズムがほんとうにわかるのは、男性にとって異性たる女性ではなくて、同性である男性だと、私には思われる。

kissing

― posted by 大岩稔幸 at 07:55 am commentComment [1]

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