21世紀に入って早くも9年目を迎えたが、戦争の世紀であったといってもよい20世紀への反省は活かされずに、いまもなお世界の各地で、みにくい戦争が続発している。
戦争がなぜ起きるのか。平和を構築するためには、戦争の研究をなおざりにすることはできないが、平和がなぜつづいたのか。平和であった時代の考察もさらに進める必要がある。
徳川300年(実際は264年)は、平和の時代であったといわれがちだが、その内実は必ずしもそうではない。徳川家康が征夷大将軍となって開幕したのが慶長8(1603)年である。
その後に大坂冬の陣があり夏の陣が起こる。元和偃武(げんなえんぶ)とはいうけれども、寛永14(1637)年には島原の乱が勃発する。総勢3万7000という反乱軍を12万余の軍勢で鎮圧した大事変であった。
天保8(1837)年の大塩平八郎の乱、元治元(1864)年の禁門の変など、戦乱はあいついでいる。
それに対して、延暦13(794)年の11月8日、都は平安京と命名され、「平安楽土」を願って展開された平安時代は、江戸時代よりもはるかに平安の時代であった。
もっとも保元の乱(1156年)以後の京都の実相は、非平安だが、それまでの間にいくつかの政変はあっても、大規模な戦争はなかった。
10世紀前半の承平・天慶の乱を軽視するわけにはいかないが、平将門や藤原純友らの武力蜂起は挫折した。
平安時代が日本の各時代のなかで、もっとも平安の時代であったことが再発見され、平安時代がいかに平安の世紀であったかを、あえて強調したい。
大同5(810)年の藤原薬子の変のおり、兄の仲成は死罪と定まったが、「死する者は再びかへらず、遠流無期の罪は死罪に同じ」として遠流となった。この「大同の例」は、保元の乱で平忠正・源為義が死罪となる日まで、守りつづけられた。
実に346年の間、死刑の執行がされなかった、人類史上の稀有の都が平安京であった。その深いえにしをかみしめたい。
京都大学名誉教授
上田 正昭
2009年3月14日
高知新聞 夕刊 「灯点」ひともし
Comments