福島第一原発について

「原子力の安全観」として重要なことは、三つある。

第一に、住民側にとっても「事故なんて考えられても困る、安全であってもらわなくては困る」ということだ。
原子力発電開発側(原子力産業会議、原子力委員会)の一部では、原子力発電所事故を鑑み、人口抑制、グリーンベルトを図ろうとした。
だが住民側は「開発による立ち退き」と捕らえ、また村側も人口抑制・グリーンベルト構想を実行しなかったのである。
すなわち「安全である」ことが前提であり、住民側、村側にとってそもそも事故を想定してもらっては誘致できず、困るのである。

第二に、原子力委員会のアンビバレントである。
原子力委員会側としても「安全である」という前提をかかげながらも、あえて事故を想定し、しかも防災上の観点から人口抑制、グリーンベルトを構想したにもかかわらず、村側の反対 で失敗したことである。後述するが原子力委員会のアンビバレントが見てとれ る。
すなわち一方で「事故」は発生しえないから、「重大事故(放射性物質拡 散なし)」「仮想事故(放射性物質拡散あり)」を想定し、放射性物質飛散、 事故はありえないとしながらも、一方では「原子力都市構想」として、人口抑 制、グリーンベルトを想定せざるを得ないのである。もちろんそれは「防災上」 重要な施策ではある。
だが、それでは立地はできなかったのである。退避道路だけが実現した。

第三に、また多くの原子力関係者がその後、東海村に定着し、また東海村住民も職として原子力関係に就いていくことである。
現在東海村では本人または家族が原子力関係企業に就職しているという人が2 割弱、原子力関係企業に就職 していた、取引先が原子力関係企業であるという人まで含めると約3 割弱存在する(東京大学社会情報研究所「災害と情報」研究会調査)。

原子力関連産業が地域に定着し、就業者またその家族がそこに住むことによって、安心感をも たらしたのである。
県実施の原子力施設社会環境調査によれば、事業所の所在 地または近隣市町村に95.1%が家族とともに居住しているという(茨城新聞, 2000.2.22)。

原子力が実際に危険ならば家族とともに住むはずがない。原子力関係者の地元居住が原子力に対する地元の理解を促していったという側面もある。
コミュニケーションの機会も当然発生してくるわけだし、漠然とした安心感が生まれるのである。
「事故の可能性があるなら、そのような仕事にはつかないはずだし、事実東海村に家族とともにすんでいる」「臨界事故の後でも本当に危険ならば住み続けているはずがない」という(筆者の参加した東海村げんきまんまん塾シンポジウム第二部交流会においての会話)認識を形成した のだ。

1968 年村の意識調査では、不安を感じないとした人は29.5%いたという。 まとめると、初期において東海村では、原子力委員会側・企業側が「安全」を 主張したのではない。
初期においては、人々も原子力発電が「安全」たることを要求したのであり、村側も「安全」であることを要求していた。「防災」はおろか、そのような事故自体あってはならないものだった。

住民・村・原子力 委員会(国)・原子力産業の合作として、「安全であるはずだ」「安全であってもらわなくては困る」という観念が形成されたのである。
そして、1970 年代の公害問題の高まりの中でも、さしたる大事故や環境汚染は引き起こさず、 しかも地域に従業者が根づいていったことで、「安全」という意識が漠然と形 成されていったのである。

歴史
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=17-01-02-07 Link
大型研究を支えた研究体制
http://www.geocities.jp/viva_ars/bunko/nakai/Nusc-2.pdf Link
新生日本の学術体制刷新の努力ー学術会議の誕生まで  日本学術会議誕生の物語を聞くと、日本国憲法の誕生物語を思わせるところ がある。憲法が、GHQ(占領軍総司令部) のイニシャティブにより理想に満ちた 民主主義を植え付けたように、学術会議は GHQ 科学顧問のイニシャティブに よって研究者民主主義の基礎を作った。  

第一部の冒頭に紹介したように、戦後の科学技術に関する占領軍の政策は極めて粗っぽいものであったが、やがて米国内にも批判が生まれてきた。そこで、 GHQ に本当の科学者を顧問として入れることが必要であるということになり、 1948 年に H.C. ケリーという物理学者が GHQ の科学技術部に赴任してきた。  

ケリー氏は、精力的に各地の大学を訪問し日本の学術体制について学者の意 見を聞いてまわったそうである。北大を訪ねて化学科の堀内寿郎教授と話した 時、同教授から日本にも学士院があるが単なる栄誉機関のようなものでアメリ カの科学アカデミーのように積極的な活動はしていない、新しい組織を創る必 要があるということを聞いた。  

ケリー氏は、早速この問題に取り組むことにして、堀内教授の助言により東大植物学科の田宮博教授に学術体制の刷新策を建てるように求めた。田宮教授 は、その頃北大から東大に移られた物理学科の茅誠司教授に協力を求め、また 英語に強い人にいて欲しいというので同じ物理学科の嵯峨根遼吉教授にも協力 を求め、田宮・茅・嵯峨根の「3人組」を作ってケリー氏との交渉を重ねられ た。

「3 人組」が中核となって科学渉外連絡委員会(通称 SL: Science Liason Gro up) を形成し、さらに工学系のEL、医学系のML、農学系のAL ができたそうで あるが、これらはGHQ のケリー氏側の刷新努力であった。一方文部省の側では、 戦前から日本の研究体制を構成してきた学士院、学術研究会議、学術振興会を 改組しようという動きが、学術研究会議の建議に基づいて始まっていた。

学術 研究会議や文部省でいろいろな議論を重ねたが、3団体の改組は内部の反対に もあって進まなかった。そこで、GHQ の方から改組案は白紙に還してもっと全国的な視野で民主的な審議をするようにという助言があり、SL などの渉外連 絡委員会は文部省の世話で学術体制世話人会に移行し、さらに学術体制刷新委員会が作られた。会長は東大工学部の兼重寛九郎教授であった。こうしてできた学術体制刷新委員会が、学術会議の構想を固めた。

日本学術会議の誕生 ー 研究者の意思決定機関  
第1、第2章で述べたように、原子核科学の分野では研究体制の整備と大型 研究計画の推進に学術会議が果たした役割は極めて大きかった。茅、朝永、伏 見、坂田先生らの強いリーダーシップと研究者集団の強い団結によって、物理 学の分野が突出した感じが強い。

桑原武夫先生に「物理帝国主義」だと批判されても、なお、原子核分野の研究者は学術会議を研究者の意思を集約する場として重視し、研究者の意思に基づく研究計画の審議と推進に利用した。学術会 議の総会や部会ではなく、研究連絡委員会あるいはその下部組織である研究者 集団の段階で厳しい検討を進めてきた。  

とりわけ、物理学研究連絡委員会とならぶ組織として、原子核だけ特別扱いした原子核特別委員会が設けられたが、朝永先生を委員長とするこの委員会の活動は、特別に活発であった。原子核特別委員会が特別であった理由は、やは り、原子核研究の成果が恐ろしい大量殺人の兵器に使われたということに対する反省が人一倍強かった物理学者の集団だったからである。学術会議は、原子 核特別委員会のイニシャティブにより、核兵器反対に関する声明の発表や、原 子力平和利用に関する三原則の提唱などに取り組んできた。  

しかし、もう一つの理由は、朝永先生独特の議事運営術にあったと伏見先生 は書いておられる。朝永議長は、全ての人に言いたいことを精一杯言わせて皆 が疲れた頃を見計らって議長が決めてしまうというやり方で有名であった。こ の朝永流会議運営術は、徹底的に意見を述べあうという原子核研究者の習慣を 育てたという点で重要である。この時以来、原子核研究者の社会では平気で下 剋上がまかり通るようになった。そのようなことがあって、原子核研究者の社 会は、ボトムアップの意思決定方式を何よりも大切とする学術の世界で理想的 な発展を遂げてきた。  

学術会議とその下部組織における真剣な討論を経て、共同利用研究所の体制 が作られ、東大原子核研究所が生まれ、次には大学共同利用機関の第一号とし て高エネルギー物理学研究所が生まれたことは第1章で論じてきた。この流れ は当然他の分野にも広がり、東大物性研究所、阪大蛋白質研究所などが、また、 大学共同利用機関として宇宙科学研究所や、生物系の岡崎国立共同研究機構などが次々に生まれた。

学術会議の光と影 ー 学術会議改革 日米原子力研究協定の成立
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/metadb/up/LIBOSIPPK/24-11_n.pdf Link
第2 項 アトムズ・フォー・ピース(1952−1953)  
1952年4 月のサンフランシスコ講和条約発効に伴い日本の原子力研究は解禁 されたが、しばらくは政府レベルにおいて目立った動きは見受けられなかった。 民間レベルでは1952年10月23日、伏見教授や芽誠司教授らが戦後日本の原子力 研究の方向性を定めるべく原子力憲章の起草を日本学術会議に計ったが、時期尚早とのことで却下されるなど、科学者達の間でも原子力研究についての意見 は割れており、武谷三男をはじめとする科学者は早急な研究再開を戒めていた 27)。

ただ科学者たちは、政府を放任すると軍事的研究に走るのではとの懐疑 を共有し、科学者自身で研究方針を策定すべきと考えていた。同じ頃に産業界 では、電力中央研究所が1953年9 月に設立され、傘下の電力経済研究所が新エ ネルギー委員会を設置するなどして原子力の勉強会が始まっていた28)。  

いずれにせよ日本の遅々とした歩みに衝撃を与えたのが、アメリカ政府の原 子力政策の転換であった。第2 次世界大戦終結前後よりアメリカは、他国と一 切の原子力協力を自制する一方で、国際機関による核兵器の制限・禁止と平和 利用の一体的な国際管理を模索していた。1946年6 月14日に第1 回国連原子力 委員会が開かれて以降、米ソはバルーク案やグロムイコ案を各々提出して交渉 を行ってきたものの29)、核兵器の禁止時期や国際機関に委譲する権限などで 埒があかず1948年には休会に追い込まれていた30)。

そこで1953年12月8 日、 第8 回国連総会においてアイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)大統領はア トムズ・フォー・ピース(Atoms for Peace)声明を発し、民事利用のみを管理する国際原子力機関(IAEA)の新設を目指すことを表明した31)。  

しかしその新たな試みに対してもソ連が難色を示したことから、アメリカは 同時並行的に二国間協定による原子力協力の方針を示し、他国との協力を禁止 していた1946年の原子力法を1954年に抜本的改正を行った。そして同年11月の 第9 回国連総会において、濃縮ウラン100kgを同盟国に配分することを明らか にした32)。

第3 項 
2 路線の萌芽 (1954)  
そのような方針転換を一つの要因として、ようやく日本でも政府レベルで原 子力利用に向けた動きが始まった。当時、衆議院議員であった中曽根らが中心 となり自由党と改進党そして日本自由党の保守三党は1954年3 月2 日、原子炉 築造関連費用として2 憶5,000万円の補正予算案を第19国会に提出した33)。 予算計上を受けたことで、日本の原子力利用は本格的にその準備が開始された。 しかし、そこに生じたのが第五福竜丸の被爆であった。

しかし民間レベルでは、科学者と民間企業という対立が起こっていた。日本 学術会議は、1955年4 月15日に協力協定には機密保護条項が含まれる可能性が あり、3 原則に抵触するとして政府に慎重な判断を要望していた。他方、4 月 29日に経済団体連合会(経団連)は原子力平和利用懇談会を設置し、5 月4 日 に学術会議の3 原則は原子力開発利用を阻害するものだと声明を発したのである68)。  

ただ、積極側であった産業界においてもアメリカ側の資本に完全依存することは自らの商機を逸するとの考えから安易な締結には危惧を抱いていた。この 両者を満足させうる交渉方針が、第9 条を本文から外して平和的研究に協定内 容を限定化し、期間を短縮させるなど自国の裁量を制限しないというものであったと考えられる。これは政府レベルの関係者にとっても好ましい選択であっ た。

一方で岸信介などの与党幹部が第9 条の据え置きを希望したのは恐らくア メリカ陣営からの見捨てられを懸念したためと推察される。  
ただ、このような日本側の要求が通ったのは、多分にアメリカ側の対日配慮 に基づくものであった。つまり第5 福竜丸で戦後最悪にまで悪化した日米間関係を改善するとの思惑とともに、核兵器を使用した日本に原子力援助を与える ことは、原子力の平和利用のリーダーであることを世界にアピールするために 必須であった。

日本側交渉者は、このようなアメリカの弱みを察していたふしがある。実際に、5 月17日に高崎経審長官は衆院予算委員会において、アメリカは交渉において多大の好意を払ってくれているものと解釈していると発言し 69)、日本は特別扱いを受ける権利があるとの判断を示したのであった。  

このように国内の消極派と積極派の懐柔、そしてアメリカによる対日配慮を 巧みに利用した結果、日本側の原子力の民事利用路線に基づいた交渉方針が策 定・結実された。


アカデミックハラスメント
http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=249707 Link
原子力と医療業界との結びつき
http://www.twitlonger.com/show/9plpo9 Link
広瀬 隆 著腐蝕の連鎖薬害と原発にひそむ人脈
http://ueno.cool.ne.jp/fujiwara/index.html Link
東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present
http://tokyopastpresent.wordpress.com/category/%E9%9C%87%E7%81%BD/ Link
原子力の社会史
http://blog.goo.ne.jp/ikatsu2006/e/b24909d863bb25bd4864d0d00562ddfd Link
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― posted by 大岩稔幸 at 09:52 pm

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