「羮に懲りて膾を吹く」
「あつものにこりてなますをふく」と読みます。
これは『楚辞』の「九章」の中の「惜誦」と題する詩の一節です。
この後に「なんぞ此の志を変ぜらんや」と続いています。彼、屈原は危機にある楚の国を憂い、祖国を誤らす佞臣を憎み、彼の堅持した孤高の心情を情熱的に歌ったものです。
熱い料理で舌を火傷した人は、すっかり懲りてしまって冷たい料理でもフウフウ吹いてしまう・・・という意味で、現在では「一度失敗してしまうと必要以上の用心をしてしまう」という臆病な人のたとえに使われています。
失敗は誰にでもまたどこの国にもありますが、失敗を教訓として同じ過ちは繰り返してはいけないのです。楚の屈原のように、「前の失敗」を絶対に忘れてはならないときは、たとえナマスであって吹くのは大事なことだと思う。
毎年、終戦記念日が近づくと、マスコミはこぞって「前の失敗」を繰り返し報道する。終戦68年を経てなお、アツモノを思い出させるためであろう。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺通りの勇ましい人たちもいます。彼らは「アツモノなどへっちゃら」と周囲をあおり立てる。同調者が増え熱狂すると「アツモノでも熱くない」と幻想する結果となりまた同じ失敗を繰り返してしまう。
「アツモノ」とは戦争のみではない。「原発事故」というアツモノにもまたナマスを吹き続けねばならない。「羮に懲りて膾を吹く」という慎重さは「憲法9条を守る」ことにとって極めて大切である。決して臆病者ではない。
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