ある美術教員

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12月15日早朝、教育基本法改悪の反対意思を表すために、私は国会前に座りに行った。国会前の歩道にはさまざまな市民団体、各県の教職員組合の人びとが座っている。早速、北海道教職員組合の知人に声を掛けられ、彼らの間に座らせてもらうことにする。高知の先生たちにも出会った。久しぶりに国会へ行った。数えると37年ぶりだ。しかし、時代の気分はすっかり変わってしまった。

私は教育基本法の字句を頭に浮かべる。前文では「個人の尊厳を重んじ」、「個性ゆたかな文化」と述べ、第一条(教育の目的)では「個人の価値をたっとび」、「自主的精神に充ちた」と続け、そのうえさらに第二条(教育の方針)では「自発的精神を養い」と繰り返し強調している。

これほども個人の確立を謳った教育基本法だったのに、戦後教育は失敗し、個人を確立できなかった政治家たちによって、解体されようとしている。今さらながらに、教育基本法が私たちの精神を支え育ててくれたことを思う。

例えば美術教育。戦時中、描象画を描くことは非難され、取り締まりの対象となっていた。敗戦後、少しは変わったであろうが、もし教育基本法の理念がなければ、私は高崎元尚先生に出会うことができただろうか。高崎先生も、すぐれた現代美術家であり得ただろうか、と思う。

1956年、私は家に近い、遊び場・筆山の裾にある土佐中学校に入った。そして土佐高等学校卒業までの6年間、高崎先生に美術を習った。美術を高崎先生に習ったというよりも、振り返ると、高崎先生に出会い、美術の時間を過ごしたと言った方がよい。

高崎先生は母校・土佐中(旧制)を1940年に卒業している。数学が得意だった先生は早稲田大学専門部工科に進んだが、ドイツで起こった近代建築運動、バウハウスに興味をもち、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科へ移った。

数学を好み、精繊な論理を組み立てる性格は、その後の作品にも反映されている。だが、1943年秋、学徒出陣となり、海軍の通信に携わり、敗戦。東京都の学校に勤めたりした後、1951年に郷里へ戻り、城北中学校を経て母校の教師になった。

高知へ帰ると、ピエト・モンドリアンの幾何学的抽象画を東洋的に解釈したという「朱と緑」の作品を描き、東京のモダンアート協会に参加している。以来、高知県美術展覧会(県展)、モダンアート研究会、具体美術協会などを通して、若い芸術家に刺激を与え、常に自分の既成の作品を打ち破る作品を発表してきた。

私たちが高崎先生に出会ったころは、まだ貧しい時代、美術の教材は満足できるものではなかった。だが先生はいろいろな材料を工夫し、毎回、私たちの前に置いてくれた。

白い大きな紙に墨汁で、好きなように描きなさいとか。木切れを積みあげ、好きなものを取って、勝手に彫刻しなさいとか。予算の乏しいなかで、エッチングの機械を購入し、好きなものを描きなさいとか。材料は多様だったが、すべて好きなように取り組みなさいだった。

こうして高崎先生は、静物、風景、人物などに向かって描写の修練をするのではなく、物そのものに向かうように誘った。既成の教材を使わない、物あるいは自然と自己との関係を問う、この構えは私たちが卒業した後さらに深まっていった。

ある時は、剪定後に校庭に積まれた楠の枝を使った。生えている木の上部をそのまま地面に立てると、みすぼらしく見える。ところが幹から水平に伸びている枝を、九〇度起こして地面に立てる。群がった枝は林になり、山になり、枝の分岐や曲線が組み合わさって、校庭が思わぬ景観に変わった。

あるいは、枯れて切り倒されたメタセコイヤの大木を使って、「現代美術葬」を行うと宣言した。校庭に大木を横たえ、木が高く伸びた姿を際立たせるため、幹に石膏を塗った白い布を巻きつけた。雨が降り、石膏が溶けて地面に流れたり、再び乾いて固まったりし、木はさまざまな表情を見せる。

これらは高崎先生の頭脳から湧き出る着想の、わずかな断片である。生徒たちは先生の美術の授業から、物に向かって感じることが、知識を媒介にせずに直接考えることにつながる、得がたい体験をするのだった。

見方を変えれば、こんなに新しい発見に出会う。その感激は、生きることに喜びを見出す力になっていったに違いない。高崎先生は生徒たちを刺激するだけでなく、ベニヤ板に無数のキャンバス片を張りつけた代表作「装置」シリーズ、積みあげたブロックを破壊して、その陰翳のなかを歩かせる作品など、高知から関西に、ニューヨークに、先駆的な現代美術を送り続けてきた。

また、決して先輩ぶらずに若者を評価する先生は、田島征彦、征三、合田佐和子ら多くの美術家を鼓舞してきた。私は高崎元尚先生への感謝と共に、現代美術が学校の授業でありえたのも、個人の確立を求める教育基本法の理念のもとでのことだったと思う。

野田正彰
(関西学院大学教授、評論家=高知市出身)

「ヨーロツパのアクションペインティングに圧倒され、『ああ、負けた』と思ったことがある」と高崎さん。創作活動を語る表情は情熱的で、明るい(高知市幸町の自宅)

ある美術教員
好きなように物に向かう

2006年12月28日
高知新聞夕刊

― posted by 大岩稔幸 at 11:47 am

ハチドリの一滴

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お通夜の席などで、みなさんが真剣に考えておられるときに、お話をさせていただくというのは、坊さんにとってとてもよい機会になります。

80歳すぎて亡くなれば不足はないが、50歳で亡くなる人はとかく短命で惜しいと言われがちです。しかし、何歳で死んでもその天命、寿命を精いっぱい生きたことは全く同じであって決して「短命」ということではない。50歳でも80歳でも、そこに長い短いということはないと、お話をしています。

ただ、戦争で死ぬとなると、「天命を全うする」という言い方は通じません。平和憲法の下で亡くなられた方は天寿を全うできるけれども、戦争で亡くなった方は、その天寿を全うできなかったのだと思います。

尊い命を無駄に

今年、NHKの特集などさまざまな機会に、戦時中の硫黄島の悲劇がとりあげられました。たくさんの兵隊さんが「天皇陛下万歳!」と叫び、「玉砕」し「自決」しました。尊い命を無駄にしたのです。みな洗脳でそこまで追いこまれました。教育の「力」の恐ろしさが示されています。

教育基本法改定が強行されました。私たち戦中派から見ると九条改定との危険な結びつきを感じます。このようなものが強行されることは本当に不条理です。

イラクやアフガニスタンでは今も戦争が続き、世界のあちこちでテロや暗殺事件が繰り返し起きています。悲観的と言われるかもしれませんが、差別、格差、戦争、ちっともなくならない。まさに“戦国時代”です。

その中で、私たちがなんとかこの60年間を平和に暮らしてきた、その大本にあるのは平和憲法だと思います。その素晴らしさは、これしかないとわかっているのですが、私には何とも言葉に表しようのないものです。

「青葉の笛」の音

文部省唱歌にも歌われた「青葉の笛」がこの寺に残されております。一の谷の合戦で敗れ、海に逃れる平家方を追った熊谷直実がある若武者の首をはねた。その若者とはまだ16歳の少年・平敦盛でした。直実は敦盛のあまりの美しさにためらったものの、味方に悟られるのを懸念して殺します。直実は敦盛の腰に笛を見つけ、明け方に聞いた美しい笛の音の主だと気づき、殺し合う戦(いくさ)の世の無常を感じ出家を決意することになったといいます。その笛が戦の虚(むな)しさを現代に伝えております。

南米には、アマゾンの山火事に、一滴(ひとしずく)の水を懸命に運んで火を消そうとしたというハチドリの民話があるそうです。「焼け石に水」と笑う大きな獣に、「私にできることはこれだけです」とハチドリは言ったそうです。

なかなか変わらない悪い世の中を、ちょっとでもがんばって、戦後60年の平和の基礎にあったこの平和憲法を守りたい。このたびはそのハチドリの一滴のようなつもりで、お話をさせていただきました。


真言宗須磨寺派大本山
須磨寺塔頭正覚院住職
三浦真厳
みうらしんげん
1931年「満州」生まれ。高野山大学予科、早稲田大学を卒業。教職を経て正覚院(神戸市須磨区)へ。与謝蕪村、松尾芭蕉、良寛、山本周五郎など寺とゆかりの文化人と寺との交流の歴史を発掘。『須磨寺一歴史と文学一』、『古筆貼交屏風』『須磨寺古記録「当山歴代」影印本』など出版。

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聞き手 中祖寅一
2006年12月18日(月曜日)
いま憲法9条を
宗教者は語る

― posted by 大岩稔幸 at 09:24 am commentComment [1]

医師の団結

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勤務医は労働基準法を無視した過酷な労働に耐え、安い給料で重い責任を負わされている。医学 部教員は、教育、診療、研究が重要な仕事であるが、雑用に追われ研究の時間すらとれない。大学教授であっても社会的地位は低下し、給料は下げられ、副収入も少なくなっている。大学教授の講演を聞いても外国の研究の組み合わせの内容ばかりである。

開業医の平均年収は約2,300万円で裕福そうにみえるが、生涯収入は学問への投資、開業資金、 諸経費、福利厚生などを差し引くと、決して高いものではない。勤務医40歳医長の年収は国立病院 で900万円、公立病院で1,200万円、私立病院で1,300万円、過疎地の病院で1,500万円程度であろう。最近の報道では、フジテレビ社員の年収は平均1,529万円(39.8歳)とされており、利潤のために日本人を愚衆化しているマスコミが、日本人の生命と健康を守る勤務医の年収より多いことがわかる。このようなことから医師の不満が増大している。

医師の年収は20年前とほぼ同じで、日本医師会が勤務医、開業医の不満のはけ口となっている。 そして「日本医師会は何をしているのだ」という声が大きい。しかし会員1人ひとりが文句を言っても、日本の医療は良くはならない。日本の医療を良くするためには、日本の医師1人ひとりが日本の医療制度の病巣を見いだし、その治療法を考えるべきである。その場限りの不満の言い合いで は解決の糸口は見つからず、井戸端会議のおばちゃんと同じである。

日本の医療を良くするには、日本医師会に不満をぶつけるのでなく、各都道府県医師会、各郡市区医師会がどれだけ団結して日本の医療を変えるかである。唐澤日本医師会長のトップダウンに期待するのではなく、日本の医療を良くしようとする26万人医師全員のボトムアップの熱い気持が必要である。そして初めて国民が望む「安全保障としての医療」、「国民の生命と健康を守る医療」が実現するのである。トップとボトムの一致団結が日本の医療を変えるのである。

昭和36年、日本医師会は全国医療危機突破大会を行い、政府のもくろむ制限医療を阻止した。昭和46年には28日間の保険医総辞退という団結の歴史がある。当時の医師にはプライド、政治力、気骨があった。しかし国民皆保険制度の導入によって医師の生活が裕福になると、裕福の中で医師は去勢化されてしまった。国民皆保険制度は医師を裕福にしたが、医師はしだいにレセプトに縛られ、日本の医療は国家統制となった。そして医師は官僚の使用人に成り下がった。私たち医師にとって最も必要なことは団結である。

大正5年11月10日、日本医師会が誕生し、参加した医師の総数は4万3,000人であった。日本医師会の設立の理念は日本の医療を良くするための情報交換と医師の社会的地位の確保であった。そして初代日本医師会会長に北里柴三郎が選任された。北里柴三郎の名声によって全国的規模の大日本医師会が結成されたが、北里柴三郎は研究者であり開業医ではない。しかし北里柴三郎の会長としての手腕は素晴らしいものであった。当時、医薬分業の法案を国会に提出していた日本薬剤師会に対抗するため、国会に議員を送ることを決議し、総選挙で14人の議員を当選させた。この戦略と戦術、危機感と団結力が、まさに今、必要である。

日本国民が日本の医療に望んでいることは「医療の質を上げて欲しいこと」、「医療の安全性を高めて欲しいこと」である。しかし医療費抑制政策ではこのふたつを達成することは不可能である。病気を持つ高齢者が増え、医学が進歩し、最新の薬剤や医療器機が導入され、日本の国民医療費は自然増となるはずであるが、平成12年度、平成14年度の国民医療費は前年度より減少している。厚労省やマスコミは、今でも国民医療費は毎年数%上昇していると述べているが、まったくのウソである。

世界保健機構(WHO)は日本の医療を世界第1位と高く評価しているが、それは患者、国民が高度の医療を安い医療費で受診できるからで、世界第1位は医療機関の努力と自己犠牲によって達成されている。多くの医療従事者は多忙の中で、自己犠牲的精神を持ち日本の医療を支えているが、このことを誰も知らずにいる。そのため病院の職員は多忙にもかかわらず、患者の満足度は低く、病院は経営難に苦しんでいる。この数年間、医療環境は悪化の一途をたどっている。天国から地獄への移行が目前に迫っているが、医師も国民もそれに気づいていない。

政府やマスコミは「医療費の論議を医療機関の儲け話」にすりかえ、さらに「医療事故を医師や看護師の資質の問題」にすりかえ、医療のあり方を国民の安全保障として真剣に考えていない。医師を含め、多くの国民は医療をサービス業と誤解しているが、医療はサービス業ではなく国民の安全保障の本幹である。このことを知らずに不満ばかりを言うが、これでは日本の医療は悪くなるだけである。日本人の「内なる安全保障」を支える医療に不備があるならば、諸悪の根元である医療費抑制政策をまず転換させることである。 なぜこのような医療になったのか。それは政府の医療分断作戦にはまってしまっているからである。診療報酬で各科の医師の分断を図り、また開業医と勤務医の分断を図り、准看護師の問題で医師と看護協会の分断を図り、さらには医療事故の多くは医師の過労、あるいは医療のシステムが間違っていることが原因なのに、あたかも医師の傲慢が原因であるかのように報道をする。そして医療が悪いのはシステムの問題ではなく、医療人の資質の問題であるかのようにすりかえる。

医療を良くするための公的研究会が最近目立っているが、その講師の多くは教授(国家公務員)であり、医療現場を知らず、あるいは政府の提灯持ち学者である。医療のどうでもよい部分の分析ばかりで、医療のあり方、医療のあるべき姿を示していない。

このように現在の医療が悪いのは医療の構造的不備であるのに、それを悟られないように、さらには医療人を団結させないことが政府の戦略である。ではどうすれば良いのかは、自ずと答えが見えてくる。

まず医師が団結することである。そして26万人の医師と140万人の看護師が団結し、さらに医療に関わる人たちが団結し、医療人と患者が団結することです。患者イコール国民ですから、これで医師を中心とした国民の団結となれば、医療は変わる。私たちの任務は、この団結をどのように作り上げるかの戦略と行動だと思う。

医師の使命は患者を治すだけではない。間違った政策、国民を不幸にする政策、間違った社会、これらを治すのも医師の使命と考えるべきである。医療の質と安全性を高めてほしいという国民の願いをかなえるため、国民を不幸のどん底におとさないためまた後輩医師のためにも何らかの行動、大手術が必要である。そしてそれを達成させるためには、ぬるま湯にひたっている医師会員1人ひとりが危機感を持ち、国民の生命を守るためにまず団結することである。

43歳でアメリカ第35代大統領になったケネディー大統領は、就任式で「国が諸君のために何をしてくれるかを問う前に、諸君が国のために何が出来るかを考えなさい」と演説した。まさに医師会も同じである。日本医師会をとやかく言う前に、医師会員1人ひとりが国民のため、腐敗した政策や社会の病巣を治すことに知恵を絞るべきである。医師が団結して正しい医療を説明すれば、看護師などの医療関係者も団結する。そして正しい医療の道を示せば、国民は正しい道に同意し、それを選択するはずである。医師が先頭に立って悪化の道をたどる日本医療を変える、あるいは日本の社会を変える、この意気込みが必要である。日本の医療を良くするため、心をひとつにして、今すぐにでも立ち上がるべきである。

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川崎市医師会(神奈川県) 川崎市立病院地域医療部長 鈴 木 厚

― posted by 大岩稔幸 at 12:13 am commentComment [1]

チャングムの処方箋

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日本で大人気の韓国ドラマ『大長今』(邦題『宮廷女官チャングムの誓い』)は、中国本土をはじめ、香港・台湾・ マレーシアなどでも放映され、韓流はアジア全域を巻き込んだ社会現象にまで発展している。

チャングムとは、朝鮮正史にも登場する実在の人物で16世紀の朝鮮、第11代 皇帝・中宗の主治医として活躍した女傑である。

東洋の伝統医学史をひもといても、女医として名を残しているのは、中国の洪夫人、そして、このチャングムくらいである。

中国語で流行していることを「紅(hong)」というが、歴代医家の中でも紅一点のチャングムをとりあげ、その根底に流れる伝統医学のこころを味わっていきたい。

水をめぐるエピソード
ドラマの中で、宮廷女官・医女時代の全編を通じて繰り返し登場するのが、今回のテーマである水だ。

ハン尚宮が、最高尚宮の座をめぐってチェ尚宮と競い合った際、八卦湯(スッポンと冬虫夏草のスープ)をつくるため、チャングムと連生に地漿水を用意させるシーンがある。

『本草綱目』では、「地漿水には、一切の魚・肉・野菜・果物・キノコ類の毒を中和させる作用がある」と記され、料理の際に これを用いると中毒を防ぐことができる。また、この地漿水は医女の張徳が患者の病巣部を洗う際にも用いられている。

ほかにも、塩気のある水しか口にできない済州島の民のために、奉天水(雨水を濾過したもの)を供給するシステムをつくろうとするチャンドクに対して、奉天水よりも惜雪水(12月の冬至頃に採取した雪が溶けて水になったもの)のほうがよいとチャングムが提案する場面もある。

塩分を多く含む水を飲み続けると、瘡や腫瘤が生じやすくなる。一方、惜雪水は、温疫予防の効能をもつほか、皮膚病変にも効果があるとされている。このように、水にまつわるエピソードが幾度となく挿間し、料理でも医学でも、水を重要視していることがうかがえる。

また、ハン尚宮が、チャングムに何度も水を持って来させる場面がある。チャングムは、水をあたためたり、器を変えたり、柳の葉を浮かべたりとさまざまな工夫をするが、何度持って行ってもやり直しを命じられてしまう。

結局、黄砂騒動の際、チャングムが亡くなった母のいいつけを守り、湯冷ましを使って食器や食材を洗っていたため、チャングムの部署だけ料理が腐らなかったのだということをハン尚宮が知り、いたく感心するという展開を迎える。

それがきっかけで、チャングムにもようやくハン尚宮の意図が読み取れるのである。なぜチャングムの母は、わざわざ毎日湯を沸かし、冷まして使っていたのか。

そして、ハン尚宮が水を持って来るよういいつけた真意は何であったのか。チャングムは思案の末、母が生前、たとえ水を出すにしても、まず相手に体調や嗜好などを尋ねていたことを思い出すのである。

水といえども、器に盛り付ければ立派な料理である。料理を出すときは、体質や好みを把握したうえで、相手の要望に応えなけ ればならない。料理とはすなわち、相手のために心を尽くすことだからだ。

けっして、作り手のひとりよがりや、自分の主義・主張の押し付けではなく、最初に相手ありきなのだということ。それは料理のみならず、漢方の基本でもあることをも示唆しているのではないかと思う。

『東医宝鑑』湯液篇にみられる水

韓国伝統医学の大著、許浚の『東医宝鑑』湯液篇には,水・土・穀類・草・禽類など16部に分けて薬物の特徴が記されている。

彼が水の効能を重視していたことは、「天は水を生む」とし、湯液篇の最初に水部を配していることからも明らかだ。

許浚はさらに冒頭で、「水は日常的に用いられるが、人はこれを軽視しがちである。人は天から生まれ、水穀によって養われている。人の形体の厚薄、年寿の長短も水土の違いからくるものだ」と述べ、雹や夏氷 を含む33種類に水を分類し、それぞれの性質・効能をあげている。

ドラマの中に登場する地漿水・奉天水・惜雪水もここに収載されている。また,『傷寒論』でも甘燗水・漿水・潦水・麻沸湯などは、特定の方剤を煎じる際の溶剤として指定されており、湯液には欠くことのできない要素となっている。

余談だかが、ドラマに出てくる方剤や治療法の出典は、この『東医宝鑑』である。しかし実際、許浚が『東医宝鑑』を編纂したのは、チャングムが活躍した時代よりも数十年後のことなので、チャングムが『東医宝鑑』を目にすることは、おそらくなかったはずである。

水と古代の湯液

ところで現代でも漢方薬のことを湯液というが、『黄帝内経・素問』湯液醪醴(ろうれい)篇から発展したものと考えられている。湯液も醪醴も五穀を原料として作られたもので、五穀を煮詰めたときにできる上澄みが湯液、さらにこれを煮詰めた上で発酵させたものが醪醴である。

さしずめ湯液は重湯で、醪醴は甘酒のようなものと考えたらよいであろう。

五穀とは、粳米・小豆・麦・大豆・黄黍(きびのこと)であるが、この中でも粳米は天の陽気と水の陰気を吸収し、気味は完全で、寒熱の偏りがなく、栄養も申し分ないので、湯液や醪醴の材料として最も適しているとされている。

湯液醪醴篇では、さらに以下のように続く。古代では、人々は「養生之道」を重視し、心身を調整することに長けていたので、ほとんど病気をすることもなく、湯液や醪醴を作り置くだけで服用することはなかった。

時代が下り、養生を心がける人が少なくなると、身体が虚弱になり、邪気の侵入を許して病気に罹りやすくなったが、湯液や醪醴を飲めばすぐに回復した。

ところが、現代では(といっても『黄帝内経』の書かれた時点での「現代」だが)養生の考え方が重視されなくなったので、疾病も複雑になり、漢方による「内治療」や石乏石(いしばり)、鍼灸による「外治療」も施さないと病気は治らなくなってしまったのである。

私たちは、ともすると生薬や方剤にだけ目を向けがちである。しかし、漢方の原型が、水をコアとしたシンプルなものであり、のちに人々の体力や体質、気候や社会構造の変化に呼応するように方剤として発展したものが現代の漢方薬と考えると、水の重要性をあらためて実感できるのではないだろうか。

医女 チャングムの処方箋
韓国ドラマ
本橋京子
伝統医学 Vol.9 No.1
2006.3

― posted by 大岩稔幸 at 11:50 pm commentComment [1]

なまけ病・ずる休み

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 「いじめ」問題と並んで、連日、テレビや新聞で取り上げられる「会社員のうつ病」。どの企業や組織でも「うつ病」など心の病で長期休職する人が増えており、その多くが30代、40代の中堅なのだという。

 しかも、最近、そうやって休職する人たちの“休み方”が問題になっている。時代とともに「うつ病」のスタイルも変わりつつあり、「仕事はできないが、生活や娯楽ならなんとか」という場面選択型の症状を呈する人が増えている。主治医としても、少しでも元気が出てきた人には、リハビリのために運動や旅行をすすめることもある。

 しかし、休職した人の分まで仕事をこなしている社員にとっては、スポーツや温泉には出かける同僚の姿は到底、納得いかないものであろう。私のところにも上司たちからこんな相談が相次いでいる。「うつ病の人に『がんばれ』って言ってはいけない、というのはよくわかっているのですが、『テニスには行けるけれど仕事のことを考えるだけで動悸(どうき)がする』と休み続けている日焼けした顔の部下には、『がんばって出てこいよ、みんな待ってるから』と言いたくなるんです。でもやっぱり、『ゆっくり休めよ』と言うしかないんでしょうか」

 個人的な見解だが、「新しいうつ病」の人たちには、ときとして「がんばれ」「そろそろ仕事に来てみないか」といった叱咤(しった)激励も必要なのではないか、と思っている。彼らの多くは、自分の能力が会社で適切に生かされていない、努力が報われないという不満感、挫折感を抱き、プライドが傷ついて自信を失っている。彼らには、抗うつ薬や休養だけではなく、上司や同僚から「待ってるよ」と差し伸べられる手も必要なのだ。

 休職中の彼らにも“発想の転換”が必要だ。人生も仕事もままならないもので、理想どおりにはいかない。でも、失敗したり損をしたり落ち込んだり、というのもまた、人生の面白みである。「いいじゃないか、すべてが思ったとおりに行かなくたって」と肩の力を抜くことが、回復につながることも少なくない。

 まわりから自分がどう評価されているか、きらわれていないか、と対人関係に繊細な現代人に特有な「新しいうつ病」。復職を支援するためにミーティングやリハビリなど独自のプログラムを提供する病院も増えてきた。実は私も、いま勤務しているクリニックでプログラムを考案中。はたしてこの復職支援プログラム、休養、薬に続くうつ病の“第三の特効薬”になるだろうか。

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香山リカのココロの万華鏡:うつ病「第三の特効薬」

― posted by 大岩稔幸 at 11:29 pm

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