2007/2/26
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180センチのすらりとした長身は舞台映えがする。劇団四季、音楽座を経ているだけあって、今までに培ってきたミュージカルに対するセンスは確かなものを持っている。それに加えて、くっきりした顔立ちが魅力でもあるのだろう。
「AKURO一悪路−」。TSミュージカルファンデーションのオリジナル・ミュージカルで演じた謎の若者・アテルイ。西暦700年代の東北での蝦夷と大和の民族間の戦いと人としての誇りを謳い上げた芝居の中で、主人公に重要なサジェッションを与えるのが彼の役だった。
アテルイは、不明な事柄も多いが、実在の人物とされている。その辺りに劇作家がイマジネーションを刺激されるのだろうが、その謎めいた雰囲気がよく出ていた。彼が舞台に登場した瞬間、舞台の空気が一変する。クールな空気が漂うのだ。虚無感にも似たような冷徹な眼差しが印象的だった。
吉野圭吾は視線で芝居をする。「目干両」という言葉が芝居の世界にあるが、目で物を言う役者なのだ。目は口ほどにものを言うばかりではなく、口以上のことを表現する。目に漂う色気や殺意、哀しみといった感情が、彼のアテルイにはよく似合っていた。特にこの舞台では、行き場のない哀しみをたたえた目が、非常に魅力的だった。
唄が巧みなのは当然のことだ。伸びやかな楽曲もしっとりした唄もよく似合う。スケールの大きな芝居も緻密な芝居もできるのが、彼の魅力だろう。
彼のミュージカルを中心とした幅広い活動で目立つのは、作品に恵まれていることだ。「ダンス・オブ・ヴァンパイア」などの大仕掛けなものばかりではなく、「暗い日曜日」や「パウロ」などで主役を演じ、積み重ねてきた蓄積がある。ミュージカル全盛の今、これからの演劇シーンで彼が果たす役割はどんどん大きくなるだろう。それが楽しみだ。
大塚薬報 2007/No.622
中村義裕
イケメン5人衆
― posted by 大岩稔幸 at 09:44 pm
2007/2/25
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冬の夕暮れ、高知市街にどこからともなくムクドリの大群が飛んできます。昼間は田園などで餌を探し、夜になると街中のねぐらに戻って来るのですが、ギャーギャーとそのうるさいこと、けたたましいこと。
大挙して飛来し、騒々しく餌をついばんで、再び群れをなして去っていく。変幻自在に形を変えて薄暮の空を覆うさまは、遠目には壮観ですが、後に残るのはふん害。
その昔、江戸の住民も傍若無人ぶりを苦々しく思ったらしく、人の心より金や物を大事にする自己中心主義者、道理をわきまえない手前勝手なやからを「ムクドリ」と呼んで忌み嫌ったそうです。
都心の超高層ビルを根城に、利のにおいを敏感にかぎ取って群れ集まり、食い散らかしていなくなる。当節なら江戸っ子たちは、ひところ脚光を浴びたヒルズ族らの金もうけ一辺倒の生態に、ムクドリを重ねたかもしれません。
「江戸しぐさ」という言葉をご存じでしょうか。人口百万の大都市だった江戸の人々が、互いになごやかに暮らすために編み出したルールの数々、いわば江戸っ子の行動哲学です。
よく知られたものに「傘かしげ」があります。雨の日に狭い道で擦れ違う際、濡れないように互いの傘をすっと外側にかしげるしぐさ。肩がぶつからないよう右肩を互いに後に引いて行き交う「肩引き」、もっと狭い道では横歩きする「カニ歩き」というのもあります。
そもそも「七三歩き」といって、道幅の七割は公的スペースとして急ぎの人のために空けておくべきもの、自分が歩くのは喘の三割と心得ていたとか。
これらは数あるルールの基本中の基本。幼少時に当然身に付けておかねばならないものであったと、「江戸しぐさ語りべの会」を主宰する越川礼子さんが
著書で紹介しています。
ちなみに「江戸しぐさ」の根底にあるのは、異なる意見を尊重する「尊異論」。全国から集まった異文化の人たちが仲良く共生していくためには、互いの違いを認め合うことがそもそもの立脚点だったとか。
片や世界一といわれた大都市と、閉ざされた四国の片田舎。風土はまるで異なりますが、ちゃきちゃきのきっぶの良さに隠された思いやり精神と、おらがおらがと自己主張しながらも自由民権を生んだいごっそう気質には、一脈相ずるものもありそうです。
世に流されず、何がよくて何が悪いか見極める「真贋分別の目」を持て。これも「江戸しぐさ」の教え。
「美しい国」の旗印の下、教調育基本法が改められ、今また憲法を見直そうという動きがじわかじわ強まりつつあります。江戸っ子にしろ土佐っ子にしろ、権力をかさに着た押し付けは最も嫌うところ。何より数頼みのごり押しには、道理をわきまえないムクドリのにおいがぶんぷんします。
2007年1月21日
高知新聞 社会2
喫水線
松岡 和也
高知新聞経済部長
― posted by 大岩稔幸 at 08:47 pm
2007/2/15
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1970年11月25日、市谷の陸上自衛隊東部方面総監部を、「盾の会」4名とともに訪れた三島由紀夫が、バルコニーから演説を打った後、総監室で割腹自殺した。白昼、軍服のような服装で腰に手をやり演説をするテレビに映った三島を、私は鮮明に覚えている。
この事件の数日前、三島が絵の具でいれずみを描いてもらい、記念写真を撮ったと、鴨川司郎が記している。
一方、飯沢匡は『サムライと刺青』の中で、いれずみを描いたこと自体を否定した。「三島の死から1ケ月も経ってからだろうか。横浜の大和田君から電話がかかって来た。
<あの人が死ぬ四、五日前でしたかね。あの人から電話がかかって来ましてね> そこまで聞いて私は、彼が刺青を彫ろうと考えたことをすぐ察した」「三島は<カメラマンの篠山紀信から紹介されたが、写真を撮るために私の体に刺青の図柄を絵付けして欲しい>
といったのだと大和田君が言った」と記している。
続けて、「だが、その彼の最後の快楽の跡とどめる裸体上には刺青の図はない。…大和田君が本業である荷揚作業の仕事が立て混んで、時間が合わなかったからである。
親切この上なしの好人物の大和田君は、京都の大映撮影所にいるやくざ映画で刺青の図をスターたちの体の上に描いている名手を推薦したのであったが、これも三島の方の撮影時間が切迫していて、ついに実現しなかったのである」と述べ、返す返すも残念だったとしている。
もし、いれずみが三島の皮膚に在ったとしたら、どんな図柄だったか。想像逞しくすると、それは白波五人男の弁天小僧だったかもしれない。
「あの浜松屋の場では弁天小僧が緋縮緬の長襦袢を捲くって尻を出し、大いに刺青を見せる芝居で、且て文士劇で三島もそれに扮した」ことを飯沢は指摘し、続けて「<青砥稿花紅彩画>というこの芝居では大詰になって弁天小僧は寺の屋根の上で多勢の捕手にとり囲まれて立腹を切って、まことに派手に打ち果てるのである」「三島もバルコニーで、衆人監視のなかで死を遂げなかったのかと思っている」と記している。
ちなみに飯沢は、三島の死をセックスと結びつけて考えている。そうか、弁天小僧ではない。きっと薔薇のいれずみにちがいない。ボディビルなどで肉体改造を行った三島が、細江英公に撮影してもらったヌード写真集『薔薇刑』がある。昭和30年から身体を鍛え始めた三島六年後の撮影である。
この撮影は三島にとって強烈な体験だったらしい。「細江英公序説」で三島は「或る日のこと細江英公氏がやって来て、私の肉体をふしぎな世界へ拉致し去った」と述べ、細江の「ほとんど狂人の目の光りを帯びていた」その眼で、完膚なきまでに三島は細江の作品と化した。
瞬きせず睨みつける三島の持つ薔薇刑「作品32」、あるいは「刺青のサロメ」を思わせる「菩薇刑作品29」などは、私にはいれずみに見えるのである。それは細江が彫り込んだいれずみである。
遡って昭和24年、24歳の三島が『仮面の告白』を書いている。「浅黒い整った顔立ちの若者‥…腋裔のくびれからはみだした黒い叢が、日差しをうけて金いろに縮れて光った。これを見たとき、わけてもその引締まった腕にある牡丹の刺青を見たときに、私は情欲に襲われた」とある。
倒錯した性といれずみ、引締まった筋肉への憧れ、「三島の作家活動は、実質的にはほとんどすべての期間にわたって肉体の鍛錬とともにあった」と谷川渥が指摘している。
それは切腹を描写した小説『憂国』へつながり、ついには自身の割腹へと終結した。ちなみに、飯沢がいれずみを「ミニ切腹」と呼んでいるのは、実に暗示的である。
彼は「私は刺青の世界を覗くようになって、このマゾヒズムと切腹の関係に気づいたのだ。…刺青の苦痛と出血に耐えるということは…」と述べている。
さらに松田修は「存在としての肉身の上に、今一つ重ねられた存在の確実さこそが、刺青なのである。その根源にひそむ素材としての肉身への自虐的フティシズムを忘れることは、まったく不当である」と。
三島がいれずみをしたいと願っていたのは事実であろう。
それはすでに『午後の曳航』で、13歳の登をして「硬い心を自慢にしていたから、夢の中でさえ泣いたことがなかった。海の腐食に抗し、船底をあのように悩ます富士壷や牡蠣とも無縁に、いつも磨かれた身を冷然と、港の泥土の、空瓶やゴム製品や古靴や歯の欠けた赤い櫛やビールの口金などの堆積の中へ沈める、大きな鉄の錨のように硬い心。…彼はいつか自分の心臓の上に、錨の刺青をしたいと望んでいた」と言わせている。
仲間の首領に命令され、登は材木で猫を殺す。その猫を首領が捌く。登は「皮を剥がれた目の前に見える内臓の動きで、もっとひりひりと直接に世界の核心に接し」、それが昨夜、隣の部屋の隙間から垣間見た男と母の、あれ以上はないあらわな姿と比べても、こんなに奥深くまでしみ込んではいかなかったのである。そして「心嚢を引っ張り出し、そこから可愛らしい楕円形の心臓をつまみ出し」首領は「それにしても血を見ると、何で気分がせいせいするんだろう!」と言ってのける。まさに今日的な事件を予感している。
『金閣寺』で、「内側と外側、たとえば人間を薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、この考へがどうして非人間的に見えてくるのであらうか? 若し人間がその精神の内側と肉体の内側を菩薇の花弁のやうに、しなやかに翻へし、捲き返して、日光やさつきの微風にさらすことができたとしたら」と主人公に語らせている。
苦悩に満ちて硬くなった今日の子供たちの心臓の、そこに彫られたいれずみは彼らの精神の内側をひっくり返して覗かない限り理解できない。
加えて、三島には『複雑な彼』といういれずみが重要な役割を担う小説がある。国際線ジェット機の1等で、金釦の制服で、男らしくてきばきと、しかし優雅な動作で、酒の注文をきき、給仕するスチュワードの背中に惚れた乗客冴子がいる。惚れられたその男譲二、その譲二と恋愛、そして結婚の決意をした冴子が、彼の決断が見えず、ついに彼のアパートを訪ねる。そこに譲二は見知らぬ男といた。
「<どうだい。君がこのお嬢さんにどうしても結婚を申し込む勇気のなかった原因をお目にかけちゃあ。いつまでも謎のままにしておくことはない。君は沖仲士をやめてから、ぶらぶらしているうちに、若気のいたりで、そんなものを背負い込んだんだ。君はそれほど恥ずかしく思っていても、ただ黙っていては、君のその気持ちは人には通じない。思い切って見せてしまえば、吹っ切れるぜ。どうだね> …冴子は譲二が立上がり、目の前へ背を向けるのを見た。
譲二はなお、何かためらって、そのままの姿勢でうつむいていた。そこで冴子の目の前には、はじめて彼を見たときと同じ、ひろい巨大な背中があった。…譲二の手が動いてワイシャツの釦を外しているらしかった。…突然、純白の幕が切って落とされたように、譲二のワイシャツが大まかに、さっと脱ぎ捨てられた。
冴子は息を呑んだ。その背中いちめんにあらわれているのは、みごとな刺青だった。絵柄は何というのか知らないが、両脇には様式的な波が躍り、そこを錦絵風な顔だちの達しい男が波を切って泳いでいて、その男の背にも、昇り竜降り竜の刺青が彫られ、ぎっしりとつまった波の紋様がその男の下半身を没していた。実に見事な、圧倒的な、いやらしいほど鮮明な朱と青の画像であった。冴子は目がくらくらして倒れそうになった」
この譲二の背中のいれずみの露顕は、日本人の男性のいれずみの本質、すなわち、松田の言う「刺青は本来かくされ、覆われていなければならないのだ。あらわな刺青とは矛盾概念なのだ。浜松屋のあの一見長々とした導入部は、かくされたものとしての刺青が、顕われる一瞬の重さへの補償なのだ」を表現して余りない。
三島由紀夫は「鬼面人を驚かすようなことがしたい」(『週刊朝日』創刊五十年記念号)という反面、「葉隠れ」の謙抑を好んだ(飯沢)が、それは、まさにいれずみの持つ矛盾である。
いれずみ物語
小野 友道(熊本保健科学大学・副学長)
三島由紀夫のいれずみ
薔薇か錨か、弁天小僧か
主要文献
1)飯沢匡:サムライと刺青、『飯沢匡刺青小説集』、立風書房、1972.
2)鴨川司郎:刺青と文学『増補普及版 日本刺青芸術・彫芳』 (有) 人間の科学新社、2002.
3)新潮文庫:『文豪ナビ三島由紀夫』、新潮社、2004.
4)谷川 渥:三島由紀夫とバロック美術、国文学、45;60、2000.
5)谷川渥:『文学の皮膚 ホモエステテイクス』、白水社、1996.
6)種田和加子:『アポロの杯』一流血の聖セバスチャン国文学、45; 46、2000.
7)『日本の写真家32細江英公』岩波書店、1998.
8)松山修:『刺青・性・死』逆光の日本美−、平凡社、1972
9)三島由紀夫:『複雑な彼』、集英社、1987.
10)三島由紀夫:『日本の文学69三島由紀夫』、中央公論社、1965
11)三島由紀夫:『決定版三島由紀夫全集32』、新潮社、2003.
12)同上、39、2004.
大塚薬報
2007/No.622
― posted by 大岩稔幸 at 11:15 pm
2007/2/13
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「親指姫」といえばアンデルセン童話の主人公。しかし今は親指を器用に動かし、携帯電話でメールを送る若い女の子のことをそう呼ぶようです。片時もケータイを離さない彼女たちの、あの小刻みな親指の動きにはただただ感心します。
テレビゲームと併せ、これほどまでに親指が活躍する時代は人類史上にないそうです。このままだと、親指が異様に発達した人類が登場するのではと妙な心配をする人もいます。
本を読むときも、勉強するときも傍らにはケ一夕イ。メールが入れば、即座に親指が動き始めます。本を開いて空想の世界に浸っていても、方程式を解いていても、着信音で現実の世界に引き戻される。活字離れや学力低下が起こるのも無理はないかと納得もしてしまいます。
教育再生会議が先ごろ、第一次報告を提出しました。文部科学省のホームページで議事録などを読んでいましたが、論議がかみ合わない場面もしばしば。会自体が空中分解するのではと大いに心配もしましたが、何のことはない、この国の教育を左右する報告は、わずか3カ月で完成。安倍普三首相は「100点満点の報告」と胸を張りました。
「社会総がかりで教育再生を」との考えは大いに共感するところです。しかし中身は、粗稚、強引な印象がぬぐい去れません。基礎学力向上に向けた授業時数の10%増も、何を根拠にしているのか分かりません。昔ならいざ知らず、授業時数を増やせば学力が上がるといったデータは見たことがありません。
2004年発表の経済協力開発機構の調査で」日本の高校1年生の読解力は8位から14位へと大きく順位を下げ、学力低下問題がクローズアップされました。しかし問題なのはその中身。生徒の読解力は全体的に落ちたのではなく、下位層の急激な拡大が順位を下げたという点です。そこには勉強する子としない子の二極分化があります。
学びから逃げ出す子の拡大をどうやって食い止めるのか。いい大学に進学し、いい会社に入れば幸せになれる・・・暗黙のうちに子どもを勉強机に向かわせていた“幸せの方程式”への信仰が弱まった今、すべきことは、量的拡大などではなく、どの子どもも持っている興味や意欲を刺激し、「学びのエンジン」を発動させる質を重視した教育のはずです。
アンデルセンの「親指姫」はヒキガエルに誘拐されたり、好きでもないモグラに求婚されるなど数奇な運命をたどります。
「ゆとり教育」の旗の下、教育内容を大幅削減したかと思えば、あっという間に方向転換し、今度は授業時数の10%増。猫の目のように方向が変わるこの国の姿は、親指姫の置かれた境遇にも似ています。
親指姫は最後は、ツバメに助けられ、花の国の王子と結婚しますが、現代の親指姫を救うツバメは、いつまでも中空をふらふらと舞うばかりです。
2007年2月11日
高知新聞 喫水線
親指姫と学力低下
学芸部長 石川浩之
― posted by 大岩稔幸 at 08:17 pm
2007/2/12
カテゴリー » エッセー
ものの価値を否定するところから始めるのが、今の日本人に共通した「ふるまい方」
福島、和歌山、宮崎と知事、前知事がばたばたと談合や収賄の容疑で司直の手にかかった。ニュース記事を読んでいるうちに、これらの容疑者たちに共通する「ふるまい方」があることに気づいた。
それは、「とりあえず関与を全面的に否認する」ところから始めて、外堀が埋められるにつれて微妙に関与を認める発言にシフトし、最後に全面降伏するというグラデーションをたどるということである。
別に珍しくもないと思われるかもしれないが、このような「なし崩し」の風が一般化したのは、実はかなり近年のことなのである。
「オレ様化する子どもたち」の著者、諏訪哲二さんによると、この徴候は1980年代中葉に中学高校で見られるようになった。
当時、高校の生徒指導部長であった諏訪先生のところに、トイレで喫煙していた生徒が連れてこられた。「その生徒は喫煙を現認した当のその教師の前で『タバコは吸っていない』と言い張るのである。その教師はびっくりして口がきけない」
以後、「非行事実それ自体をまず否認する」というやり方が全国に蔓延(まんえん)する。カンニングを教師に見咎められても、「していない」と言い張る。授業中の私語を注意されても「聴いているよ」と言い張る生徒たちが出現してきたのである。
諏訪先生は、これが消費社会の消費者に固有のふるまいではないかと推察している。私もこれに同意するものである。
現代人はおのれをまず消費者として規定する。それは受け取る賃金よりも消費する金の方が多いということではなく、とりあえず「消費者マインド」でものを考えるということである。
目の前に示されるすべてを商品として捉え、それをできるだけ安い対価と交換しようとするという傾向のことである。だから、消費者は提示されたものに「できるだけ低い評価額」をつけることからすべてを始めようとする。
商品評価を切り下げるには経験的に有効な方法が2つある。1つは「そんなものに私は興味がない」という「無関心」の態度を示すこと。1つは「その商品がどのように低品質のものであるか私は熟知している」という「事情通」のふりをすることである。
子どもたちにも消費者マインドはしみこんでいる。子どもたちは「学校教育に何も期待していない」という宣言から始めて、教師が差し出す教育的コンテンツの価値など「私には熟知されている(だから学ぶ必要がない)」という物憂げな顔をしてみせる。それでも何年か後には卒業証書を手にして立ち去ってゆく。
学校教育に価値がないと思うなら止めて違うことをすればよいのに…と思うが、いやいや最後まで通って卒業資格を手に入れるところを見ると、彼らの狙いが教育の価値を否定することにではなく、資格をいかに安く手に入れるかにあったことが知れるのである。
ものの価値を否定してみせることによって、より安く手に入れようとするこの「バザールの風儀」は、今や年齢、性別、職業を問わず日本人のあらゆる社会活動に浸潤している。
しかし、知事たちの醜態が示すように「無関心」と「訳知り顔」だけで生き延びてゆけるのは「バザール」というコップの中だけである。
2007年1月12日
高知新聞
混沌解く鍵
内田 樹
(神戸女学院大教授)
― posted by 大岩稔幸 at 04:18 pm
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