不東(ふとう)

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不東(ふとう)
 三蔵法師・玄奘(げんじょう)の、インドへ達せずば東へ戻らず、という気概を示した言葉。『大唐大慈恩寺三藏法師傳』に、玉門関の手前、瓜州(甘粛省安西県)を発ち草原に入ったときに年老いた胡人に西域行きを止められたときの「貧道爲求大法。發趣西方。若不至婆羅門國。終不東歸。縱死中途。非所悔也。」(私は大法を求めんがために西方に発とうとしているのです。もしバラモン国に至らなければ、けっして東に帰って来ません。たとえ中途で死んでも悔いはありません)。

 また、玄奘が玉門関の外に五つある烽(狼煙台・要塞)の第一烽で捕まった時に校尉(指揮官)王祥に言った「誓往西方。遵求遺法。檀越不相勵勉。專勸退還。豈謂同厭塵勞。共樹涅槃之因也。必欲拘留。任即刑罰。奘終不東移一歩以負先心。」(西方に赴いて遺法を尋ね求めようと誓ったのです。それなのに貴方は励ますことなく専ら退き返すことを勧めるのですか。苦労を嫌ってどうして共に涅槃の因を植えるといえましょう。どうしても私を拘留しようとするなら、すぐに刑罰につかせて下さい。私はどんなことがあっても東へは一歩も歩みません)。

 さらに、砂漠で水の入った皮袋を落として水を失い、やむなく十里ほど戻ったときの「自念我先發願。若不至天竺。終不東歸一歩。今何故來。寧可就西而死。豈歸東而生。」(自分は先に願をたてて若しインドに至らなければ一歩も東に帰るまいとした。今なぜ引き返しているのか。むしろ西に向かって死ぬべきだ。どうして東に帰って生きられよう)の三箇所に見える。

 玄奘は、仁寿 2年(602)〜麟徳元年(664)中国唐代の僧。法相宗の開祖。洛州陳留(河南省偃師県)の人。俗姓陳氏。13歳で得度。洛陽の浄土寺で勉学したのち武徳5年(622)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧辨といった学僧から倶舎論や摂大乗論の教義を受けたが、多くの疑義を解決することができず、国禁を犯して貞観3年(629)インドへ出発。中央アジア・カシミール経由でマガダ国に入りナーランダ学院にて戒賢に師事。
 
大乗の唯識学(瑜伽論)を中心に仏教論理学や文法学などを広く研究し、貞観19年(645)帰朝後、没するまで『大般若経』『解深密経』『成唯識論』など総計76部1347巻に及ぶ訳業を完成した。これにより唐初の仏教界に法相宗が生まれ,日本の奈良にも伝えられた。弟子弁機は『大唐西域記』を撰し,慧立に『大唐大慈恩寺三藏法師傳』がある。なお小説『西遊記』は『大唐西域記』や『三藏法師傳』の話にもとづき、明の呉承恩が隆慶4年(1570)ごろ撰したもの。

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― posted by 大岩稔幸 at 10:36 am

 

謹賀新年2010

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 新しい年、トラ年が明けた。「口あけて腹の底まで初笑い」(虚子)。元日をこんな調子で過ごすことができたら、「笑う門には福来たる」で穏やかで幸せな1年を迎えることができそうだ。

 しかし社会や身の回りを見渡すと、笑ってばかりはいられない。笑いを忘れたような景気に、デフレが追い打ちをかける。収入の目減り、失業問題もある。そんな折、思い起こすのは昨年、本紙に載った「ぷかぷか人生」と題したサックス奏者、坂田明さんの一文。

 バンド仲間と海外へ演奏旅行に出掛ける。ぼろぼろの会場。こんな対応があるのか、と怒りの声が上がる。坂田さんはこうたしなめたという。「こんな貧乏な国の人々がおれたちを呼んでくれて、音楽を聴こうとしてくれてんだよ。この人たちが呼んでくれなきゃ、ここには来られなかったんだぞ」

 おんぼろ飛行機には「飛ぶだけで偉いじゃないか」。遅れて来た列車には「来るだけで偉いじゃないか」。虫がゾロゾロ出て来ると「虫も生きられない所じゃ、おれたちも死んじゃう」。心の持ち方一つで社会の景色は変わるというのが坂田流。

 突き詰めると、苦しいこと悲しいことがあっても、生きているだけで偉いじゃないか、と考えることにも通じる。昔中国の王はこんな言葉を残した。「苟(まこと)に日に新たに、日々に新たにして、また日に新たなり」

 日々に刷新があれば、1年はさらに輝いてくる。





高知新聞
小社会より

― posted by 大岩稔幸 at 12:12 am

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